兎追いし~、小鮒釣りしかの川
茶畑の近くの農家の庭に咲いていた。車をとめて庭に入らせてもらって写真を撮った。
やさしい淡い白色、、、、見とれてしまうほど美しかった。農家のご主人に聞くと「冬に少し肥料を与えるだけだよ」と。
牡丹は種類によって、4月上旬から5月初まで咲くようである。
少年時代は川での魚獲りがもっとも楽しい遊びであった。6月頃は雨で増水すると、鮒が水田へ水を引く水路に産卵のため上がってくるのを掴み取りした。
川が大雨のために濁って増水すると、竹の竿を数本川岸に並べて、ミミズを餌に魚を釣った。なまず、ギギ、カマツカ、ウグイ、、、、面白いほど釣れた。
小学4年生の時、遠足の前夜に大雨が降って川が濁り、絶好の釣り日である。田舎の製材所で働いていた父親がたまたま休みであった。意気投合して遠足をすっぽかして釣りに行った。
小学6年生くらいになると、蚕のサナギ粉を赤土に混ぜた団子を川に蒔いてハヤを寄せて、ハエの幼虫を餌に釣る。面白いほどつれて、いつも100匹は下らなかった。
また2~3月の雪のある寒い日でも、深みに集まっている寒ハヤがたくさんつれた。
7月頃の夕方には、虫が川面を飛ぶ。擬似針を使ってカガシラという釣り方でハヤを釣った。
夏休みには、大きな石を川に積んで置き、今度は一つずつ石を取り除いていくと、大きな鰻の胴体が現れる。それをモリで突く。
親指と人差し指でつかみきれないほどの太い鰻を獲ったこともあった。
夕方、大きなミミズを大きな釣り針に引っ掛けて、延縄のような仕掛けを沈めておき、早朝まだ暗いうちに仕掛けを揚げに行くと、鰻、なまず、ギギ、時には大きな鯉がかかっている。
こうして獲ってきた川魚は、小学低学年の頃から、子供のナベショーが大きな出刃包丁で全部、さばいて料理しなければならなかった。
鰻は蒲焼に、鯉はアライや味噌汁に、ハヤは串に5~6匹づつ刺して素焼きにしてカマドの余熱で乾燥さす。鮒も串に刺して素焼きにする。油でから揚げにしたり、山椒の葉っぱで煮ることもあった。素焼きのハヤを生姜醤油で食べるのも美味しかった。
母は「自分で料理しないのなら獲ってくるな」と厳しかった。 と言っておきながら、大きな鮭を捕まえた時には、母は張り切って自ら料理して、赤い桜色の刺身を家族全員で食べた。大きなイクラも美味しかった。
しかし、その夕べ、家族で母だけが、お腹が痛くなり七転八倒であった。今思うに鮭の寄生虫のためだったのであろう。
母自身は神戸の三宮に戦中まで住んでいたので、海の魚には目がなかった。舞鶴から売りに来る日本海の生鮮魚を買って、料理するのを楽しみとした。黒タイ、鰯、鯵、スルメイカ、カレイ、鯖、ホウボウ、勢子蟹、、、
ナベショーが料理好きで、どんな魚でも簡単にさばいて料理できるのは、子供の時の母親からの訓練に他ならない。
そうそう、冬になって雪が積もると、ワナを仕掛けて、ヒヨ鳥、山鳩、山鳥、などを獲り、羽をむしって、腹ワタを取り、骨ごと叩いて肉団子にして、ネギ、豆腐などとすき焼き風に煮た。これは大ご馳走であった。
我が家は戦中に神戸から丹波の田舎に疎開したので、他の家より田畑がそんなになかった。それで母は食料確保のため、季節の山菜採りによく山へ行ったが、おおよそ食べられるものは何でも食べた。蕨、野蕗、ゼンマイ、野カンゾウ、ヨモギ、キノコ、独活、茗荷竹、イタドリ、筍、、、
ナベショーが山菜に目がないのも母の影響であろう。
このところ、雨が降らず、特に今日は真夏のように暑かった。夕方に畑に行って水をやり、それから茶園の巡回が日課となった。
家に帰ればお風呂が沸いて、妻の夕食が出来ている。
鯵のムニエル、コハダとキュウリ、若布の酢物、豚汁である。
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コメント
ナベショー様が、億劫がらずにどんな料理でも作っていらっしゃる訳が少し理解出来ました。
奥様は安心して、お母様の介護に行かれるのですね。
私は夫の躾?に失敗したかも・・・。私の留守は外食or店屋物or弁当(出勤日の昼食だけなら夜に取り返せますが)が昼夜となると、留守にするのも気がかり。
引退したら、豚汁や野菜スープなどから練習して貰います。
投稿: ばら色婆ァバ | 2006年5月 2日 (火) 10時39分