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2006年10月 4日 (水)

九鬼水軍の故郷

Img_9995syukusyou九鬼の町

 尾鷲市九鬼町は尾鷲の隣、三方を山に囲まれた静かな入り江の中にある町である。

特に、九鬼水軍の歴史を知りたくて、はじめての紀伊半島一周の汽車の旅の訪問地に九鬼を選んだ。

 伊勢鳥羽に城を構え、織田信長、秀吉の時代に活躍した九鬼水軍の九鬼嘉隆は九鬼に本拠を置く九鬼宗家の分家である。

 南北朝の頃、九木浦に来た藤原隆信は藤原姓を捨てて九鬼姓を名乗り、直ちに築城して水軍を養成した。

 5代目を継いだ光長は豪勇で知略に優れ、尾張三河の海賊が熊野灘の沿岸に来襲し略奪した時、光長は軍船を率いて海賊を滅ぼし、熊野灘一帯から伊勢にいたる確固たる勢力を築き、九木を宗家の居城とし、鳥羽、波切に支城を構えて一族で支配した。

 その後、八代目九鬼浄隆の三男、分家の鳥羽城主の嘉隆は特に武勇に優れて九鬼水軍として頭角を現した。

 織田信長が大阪の石山本願寺を攻めた時に、信長の命により参戦した。

 西国の毛利の村上水軍に対し、自らの設計により鉄張りの大船6隻を建造した嘉隆の九鬼水軍は、毛利水軍を壊滅させる。

 この鉄甲船は名を日本丸、乗組員80人、1500石積、長さ151尺、幅29尺、100挺櫓を主動力とし、多くの工夫がなされていた。

 本能寺の変の後、秀吉に属し、島津征伐や小田原攻めに参加し、朝鮮出兵に当たっては水軍の先鋒となり、その功績により5万5千石の大名となった。

 九鬼氏の家紋は○の周囲に同じ大きさの○を6個配置した七曜紋  北斗七星を表わす

 慶長2年、嘉隆は家督を子の守隆に譲った。 

 そこから嘉隆の悲劇が始まる。

 秀吉の恩に報いるために関が原の合戦の際は西軍に加担、東軍に付いた子の守隆の留守中に城を奪い、ここに父子の争いが起こる。

 西軍、東軍どちらが勝っても九鬼家を生き延びさせるという非情な戦略だったのかもしれない(上田城の真田家のように、、)

 嘉隆の思惑は外れて西軍が負けて、嘉隆は城を出て自国内に潜伏、

 守隆は福島正則を通じて徳川家康に父の助命嘆願、

 二条城で家康は守隆に謁見し、これを許した上で加増の沙汰をした。

 喜んだ守隆はこれを父、嘉隆に知らせんと急使を父のもとに走らせる

 ところが、嘉隆は、守隆が自分を打ちに来たとの家来の言葉により、

 また、別の説では、どうせ助からぬなら潔くという家臣に進言により、

 一足違いで、助命の報が入る寸前に遺書を残して 自刃してしまう

 嘉隆 59歳、九鬼氏はこの後、守隆が水軍を引き継いだが、

 1633年三代将軍家光の時、守隆の3男隆季と5男久隆に家督争いが生じ、

 幕府の命により、隆季は丹波綾部2万石、久隆は摂津三田3万6石へ転封となり、

 戦国大名九鬼は二度と水軍を率いることはなかった。

 明治以後、両家は共に子爵となった。

 綾部の九鬼氏の子孫で、最近亡くなられた九鬼氏は熊野大社の宮司を勤められていた。

 もともとの九鬼の宗家は慶長8年、九鬼城は取り壊され、時代も平和になり、武器を取ることなく,医業を納めて代々家業とした。

 もともと、この浦は九木浦という地名、藤原姓の九鬼氏がここに居城した時、九木の飾り文字として「九鬼」という字を宛てたのであろう。

 この辺は、昔、熊野詣でに関連して、一木、二木、三木、、、、九木という地名が続く。

 もともとは九木であったのであろう。

 ところでナベショーの生まれ、出身は丹波の綾部である。

 綾部の殿様は九鬼さん、、子供の頃、凄い名前だなあ~と思っていた。

 高校の時、九木という苗字の子が幾人かいたこと、などなど、

 戦国時代の活躍した九鬼水軍の九鬼氏が綾部城主の九鬼さんっであること知ったのは

 、ず~と後になってからであった。

 旅館のおばさんが、直ぐ前の九鬼本家を祭る九木神社の宮司さんに聞けば、いろいろ教えてくれるよ、、と。Img_9984syukusyou

 早朝6時、九木神社へ行くと、 白い着物を着た宮司さんが丁度来られた。

 綾部の出身であること、九鬼水軍のルーツについて知りたいことを述べると、

 社務所に案内され、いろんな資料を見せていただき、ざっと以上のようなお話を聞くことができたのである。

 この宮司さんは、丁度年齢はナベショーと同じくらい

 ず~と神主になりたくて、会社勤めをしながら勉強し、定年退職と同時に資格を取って神主になった

 伊勢の鳥羽が自宅だが、九鬼に家を借りて月の2/3はこの九鬼に来て、この神社の宮司を勤めているとのことである。

 神社の祭礼、相談事など、結構忙しいとの事、、、

 なるほど、定年退職後、こういう生き方もあるんだなあ~

 旅館の朝食時間なので、話は尽きなかったがお暇した。

 写真は旅館の二階から、九鬼漁港、、左側が九木神社へ登る石段、、神社の写真は残念ながら手振れで失敗した。

 九鬼はこれから冬にかけて定置網漁が始まり、ブリや鯖などがたくさん獲れるそうであるImg_9993syukusyou

 無人の九鬼駅

 汽車の時間に合わせて、町営バスが旅館や漁港があるところと駅との間を往復してくれる

 ほとんどの若い人達は、となりの尾鷲などへ勤めに行っているのであろう。

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コメント

九鬼水軍の話、伝説的には知っているつもりでしたが、こんなに詳しく聞いたのは初めて。
歴史の重さ、哀しさ・・・それが大きく凄いほど、後世に一つの話として聞くと楽しいなんて皮肉ですね。

投稿: ばら色婆ァバ | 2006年10月 6日 (金) 20時47分

ばら色さま
歴史は単なる過去の歴史ではなく、その時代を生きた人の生き様を知ることにより、今を如何に生きるかに通じると思います。
学校で学んだ時の歴史は嫌いでしたが、社会人になってからは歴史が大好きになりました。

投稿: ナベショー | 2006年10月 7日 (土) 20時43分

九鬼水軍よりも、うちの女房の方が、断然強い、、なんて。

神主さんになったナベショーさまもいいかもしれませんね。
皆さんが相談事にいらしたら、バッチリのいいアドバイスをお願いしますね。

投稿: なぎさ | 2006年10月 7日 (土) 21時33分

なぎささま
そうなんですよ
水軍より山ノ神のほうが、断然怖くて強いのは昔から、、、
ナベショーの神主、、う~ん!
皆が悩み事相談にきたら、ナベショーばかりしゃべりまくって、ストレス解消なんて、、

投稿: ナベショー | 2006年10月 7日 (土) 22時43分

HP拝見しました。
九木神社に参拝されたのですね
綾部の初代の寄進の灯篭は見ましたか?
九鬼の寺は九鬼家初代開基の薬師寺が始まりです
九鬼は元々、九鬼村(慶長検地帖より)紀州徳川の領地になり九木浦は尾鷲市になるまで使われています
九木神社は明治5年に九木浦村社で、それまでは天満宮でした
私も神職になりたいですね、九鬼の隣町、九鬼鰤定置に礎になった、網頭の出身地の神社の宮司になりたいですね

投稿: | 2009年1月12日 (月) 11時59分

無記名さま
HP見ていただき有難うございます。
旅館の側が神社への石段
早朝のお努めが終わった宮司さんが、親切に説明してくれました。
初代の綾部の寄進の灯篭、、、残念ながら気つきませんでした。
知っていれば、何としても探して見つけ出したのに、、
綾部のご出身の方でしょうか。
綾部の殿様の九鬼さん、、私達はそう呼んでいました。
綾部ゆかりの地、九鬼の町の隣町 の宮司
ぜひ願いをかなえてください。
九木神社の宮司さんは、会社を定年退職してから勉強し、神主さんになられたそうでした。
鳥羽から単身赴任で来ておられました。

投稿: ナベショー | 2009年1月12日 (月) 19時47分

ナベショーさま
綾部初代奉納の灯篭は、本殿と拝殿の間にあります
私は九鬼中卒業生です
私も一度九木神社の宮司さんに会ったみたいです
私が中学生のころは九鬼姓の方が宮司でした
小学校のころは加藤姓の方で2代続いてました。
私が管理人の九鬼水軍発祥の地・紀州九木浦のHPに
写真がありますもちろん、出身地のHPも作ってます。

投稿: 無記名さま | 2009年1月22日 (木) 21時40分

無記名さま
紀州九鬼をおとづれる時、九鬼水軍発祥の地・紀州九木浦のHPは幾度も参考にさせていただきました。
九鬼のご出身なんですね。
九木神社の宮司さんは、とても熱心に九鬼水軍や九鬼家の歴史について、熱心に教えていただきました。
綾部出身の者にとっては、とても興味と親しみにあるお話でした。
お近くならば、宮司さんに是非お会いください。
とても喜ばれることでしょう。
その節は、ナベショーがよろしく、、とお伝えください。
覚えておられるかな、、?

投稿: ナベショー | 2009年1月23日 (金) 10時20分

尾鷲市になる前の九鬼町は九鬼村で九木浦(現・九鬼町・早田浦(現・早田町)の2地区があり、私は早田町の出身です。
早田は早田神社が氏神です
九鬼の寺と早田の寺は兄弟寺と言われています。
九鬼より小さな漁村です

紀州熊野灘の漁村早田浦・今昔のHPを見ればわかります

綾部の城主の子孫の方は熊野本宮大社の宮司されていると聞いています。

投稿: 無記名 | 2009年1月25日 (日) 19時59分

綾部、九鬼など検索中にたどり着きました。

小生も綾部出身、早期退職して、目下京都に住んでいます。綾部で11代住み続け、その前は何処にいたのか、調べていくと1964年にどうやら先祖はこの土地から来たと想像しています。この土地から来た人の中にかつて市長をされていた羽室さんなどもそのようですね。当方の11代目というのも綾部九鬼城主の代と丁度合致します。

子供の頃、遠い親戚になる新田君と遊んだ記憶があり、母が亡くなった時にお礼に伺った時、新田義貞と縁のある家系とお母様に伺いました。新田氏というのはあの徳川が家系を装ったと言われる源氏です。当時、源の義経に憧れていました。今、思うと彼がその血筋だったとはいやはや驚きです。
調べてみると確かに、新田義貞に仕えた江田行義という人物が丹波綾部に来たようで、どのような関係か今度伺って尋ねてみたいと思っています。
江戸時代、九鬼の殿様が近くに来られたときは、立ち寄られたと聞きました。
また、綾部城がその子孫による築城ですが、波多野氏の家来だったとか、何しろ不勉強で詳しくは分かりません。

驚いたことに、妻の家系は歴史上消えてしまった四国に渡った赤松の直系です。
新田義貞が大軍で赤松則村の白旗城を攻めるも、足利尊氏の九州からの反抗で攻めきれず退却、湊川で打ち破られ室町幕府成立の大きなきっかけになったとか。
不勉強で新田義貞と赤松円心のこともよく知らず、その新田さん宅に伺ったとき、そのような昔の出来事のこと思いもせず、話題にもしませんでした。

それにしても小生の先祖はおそらく鳥羽の地で一体何をしていたのやら、などと思う今日この頃です。


投稿: モリヒデ | 2009年3月19日 (木) 02時32分

無記名さま
早田町は九鬼の海向うの半島、早田はハイダと呼ぶそうですね。
再度、ゆっくりと訪れて見たいものです。
いろいろ教えていただき、ありがとうございました。

投稿: ナベショー | 2009年3月19日 (木) 12時35分

モリヒデさま
よくいらっしゃいました。
同じ綾部のご出身、懐かしいです。
九鬼の殿様に従って、鳥羽、や九木から綾部に来た御家来たちの子孫が綾部にはたくさん住んでおられたのですね。
羽室さん、、懐かしい、ぼくが高校生だった頃の市長さんだったかな?
波多野さん、、綾部にあった本屋さんも確か波多野書店では?
グンゼの創始者は波多野鶴吉さんでしたね。
明治、大正、昭和と綾部で活躍された方々、九鬼さんの御家来だった人々が多いのですね。
新田義貞、赤松則村、、歴史でなじみのある名前ですね。
関東管領の上杉家は、綾部の上杉の郷から出てるし、上杉の郷から足利家に嫁いだ女性の子供が足利尊氏、
徳川家御用達、宇治のお茶頭領、上林家は、中上林から出てるし、、、
綾部の歴史も面白いですね。
自分のルーツを訪ねるのも楽しいものです。
鳥羽、九木、九鬼宗家の系譜や資料を調べれば、御先祖様が、九鬼家の家来か一族、鳥羽、さらに九木で何をしてられたか、、わかるかも知れませんね。

投稿: ナベショー | 2009年3月19日 (木) 13時11分

ナベショー さんも綾部高校のご出身のようですね。
綾部のこと良く覚えておられます。
小生は、受験勉強も無駄を強要されたようで、勉強を嫌々していたものですから、高校生活にもいい思い出も無く、忘れかけていました。

鳥羽には数十年前一度、行った事があります。まさか当時自分のルーツの土地など寸分も思うはずも無く、そのすぐ近くにお城があったともしらず、水族館の付近などを歩いた記憶があります。本当に綺麗な景勝地でした。
およそ大した先祖はいなかったでしょうが、百姓、船乗り、商売人として、先祖が同じところを歩いていた可能性がある思うと感慨深いものです。

綾部の歴史については学ぶ機会がほとんど無く、本当に故郷の歴史は無知でした。
せいぜい近場では上杉の足利尊氏、亀岡の明智光秀、安寿と厨子王ぐらいです。
山椒大夫の屋敷跡というのが高知県の赤岡町にあり、子供の頃に海水浴に行くバスの中でガイドさんから聞かされたお話が、太平洋沿いの町と由良川河口とが繋がっていたのですが、その屋敷跡の話に昔は人さらいは業として実際に会ったのだと妙に納得できました。

近頃、ようやく新田次郎の新田義貞や、吉川英治の私本太平記など読みかけています。
京都も歴史を知れば知るほど興味の沸く所、少しずつ新たな発見を楽しみにしています。


投稿: モリヒデ | 2009年3月20日 (金) 16時10分

モリヒデさま
青春18キップで、各地をのんびりと旅行しますが、興味あるのは歴史ですね。
その時代背景の中で生き、そして死んでいった人々の軌跡を訪ねることは、自分自身の生きざま、いな、死にさまを考えさせられます。
私も鳥羽を幾度か訪れましたが、九鬼水軍の歴史という観点からは見ていませんでした。
京都は、最近では金戒光明寺を訪れましたが、幕末の会津藩が駐屯し寺、鳥羽伏見の戦いでの会津藩士の戦死者数百人の墓があり、会津藩の悲劇を思い起こされました。

投稿: ナベショー | 2009年3月20日 (金) 19時51分

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