百日紅の花
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夏だ、夏だ、、と言いながら、お盆も過ぎれば秋風が、、、
百日紅の花は9月まで咲き続ける、、
僕が生まれた昭和19年の翌年であった。
父は手指の障害のため、銃の引き金を引くことが出来なかったため、戦争に行くことからは免れた。
神戸三宮の生田神社の前で商売をしてたが、空襲のために故郷の田舎に疎開、
雨が降ると、傘をささねばならないような、長い間空き家だった廃屋に家族が住んだ。
戦後の食糧難、僕は記憶が無いが、母は山菜を摘み、父は川や池の魚を獲り、田んぼのタニシやイナゴはごちそうだったそうだ。
村の寄合の宴席、、
戦地で兵隊達が現地の人や捕虜に行った惨たらしいこと、、、酒に酔って得意げに語った村人の話を、子供心に決して忘れることはできないし、許せないと思った。
戦場では善良な人々の良識も人間性も狂わせてしまう、、
昨夜から、今日の午前中まで雨、、、
なんと、もう何日、こんな天気が続いてるのやら、、、
せっかく貯まった夏の蜂蜜、、、かなり蜜蜂が食べてしまった事だろう。
午後は天気が回復したので、昨日の続き、、、
巣箱の蓋の塗装
妻から電話があったので、、
そちらは何の料理を作るのか?、、、、って聞いたら 餃子
しからば、こちらも餃子を作るか
キャベツ、ニラ、玉ネギ、生姜、ニンニク、豚合挽き、胡麻油、砂糖、塩、味醂、酒、、、
良く練って、、、
25枚の餃子の皮に包んで、、、
しばらく餃子を焼いてないので勘が狂ってる
一回目は失敗、、、、二回目はうまく焼けたよ
青紫蘇で包んで食べると、美味しいよ!
モンタ、、今日は普通の顔
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コメント
私の父も教師をしてたので,戦争に入ってません。当時は戦争に行かなかった事がとてもつらい事だったと思います。戦地から帰ってきた人に(いかなかった者に何がわかるかといったようなことだったと思いますが)思いっきり殴られたことを思い出します。父はどれだけのことを表に出さないで,その後を生きてきたのか。やっと,その当時のことを想像できるようになりました。戦争は人たちの心を変えますね。このことを次の世代に伝えられるかどうか。
ペンキ塗りにもキンチョールが必要なんですね。モンタ君,ナベショーさんを今日も独り占め?
投稿: tirokuro | 2012年8月16日 (木) 07時01分
私の両親は引揚者です、生まれて間もない乳飲み子の私を背負って日本までの道のりはどんなに遠かったでしょう。
先に逃げ帰った日本の将校たちが、道も橋も破壊して追っ手を避けた…そのために多くの人が帰路を失い、我が子を中国人に託さざるを得なかったのですもの。
命に換えて私を背負い続けた父は、片足を負傷していました。
辿り着いた故郷では、引揚者や帰還兵は邪魔者扱いされることが多かったです…食料も仕事も無かった時代ですしね。
投稿: ば~ば | 2012年8月16日 (木) 07時51分
広島育ちのため、戦争教育は大人になった今でもトラウマになるほど激しいものだった。
戦争を知らない子供達、、、今の若者のどれだけの人達がその惨さ醜さ悲惨さを知っているか。
もう二度と繰り返さない、、、。しっかり受け継がなくては。
投稿: LAの次女 | 2012年8月16日 (木) 14時13分
tirouroさま
戦争は、人の心を変えてしまいますね。
戦争を美化したり、愛国心を鼓舞する政治家や人達がいるのは悲しい事です。
ますますナショナリズムのぶつかり合いの国際情勢ですが、日本人は67年前の悲劇が、戦争の現実であることを、伝え残していきたいものです。
キンチョール、、庭は蚊がいっぱい!
投稿: ナベショー | 2012年8月16日 (木) 20時57分
ば~ばさま
ご両親の事、、作家なかにし礼さんの小説「赤い月」を思わせますね。
悲惨な逃避行、、想像を絶するものです。
戦争の悲惨さを体験した人々、、だんだん少なくなる中で、次世代に伝えていかねばなりません。
投稿: ナベショー | 2012年8月16日 (木) 21時13分
私の父は、終戦記念日が誕生日です。今年で満92歳です。
父はインパール作戦の生き残りです。
オランダ軍の捕虜になったので、生きて帰ることが出来たと言ってました。
銃弾の傷跡がはっきり残ってます。
マラリヤで生死の境をさまよったとも言いました。
多くの仲間がマラリヤで亡くなったそうです。
父は最初は、近衛兵に入隊したそうです(士族だったから?)
軍局がだんだん悪くなっていって、満州からビルマへと移って行ったそうです。
父の顔は彫りが深いので、現地の人に、捕虜にならずにビルマに残れと声をかけられたそうです。
投稿: マルスママ | 2012年8月16日 (木) 21時17分
LAの次女さん
広島は原爆の悲惨さを体験した町、、反戦教育は徹底してたが、それでよかったのだと思います。
だんだんナショナリズムが強くなり、偏った愛国心教育が頭をもたげてきてますね。
二度と繰り返さない、、、でも、10年、20年後、、とても不安です。
投稿: ナベショー | 2012年8月16日 (木) 21時18分
マルスママさま
南方の戦場に行った人、、生きて帰れた人はほんのわずかですね。
オランダ軍の捕虜になってなかったら生きて帰れなかったでしょうね。
僕の中学時代の担任の先生も、300人の部隊が殆ど全滅、生き残った5人の一人だったと、、、
戦後、帰らずに独立戦争に参加した兵士もあったという、、
お父様、信じられないような戦争体験をなされたのですね。
投稿: ナベショー | 2012年8月16日 (木) 21時26分